エピローグの台詞がまだ言えない

起承転結のない人生

こんな僕は君のヒーローになれるのか

 

 

____愛の売り場はどこですか?

 

 

この問いかけに、松ぼっくり*1…いや、ゴタンダくんはしっかりと彼なりの答えに辿り着き、答えていましたね。

 

愛って、何なんでしょうか。愛に必要なものは気持ちだけでしょうか。

実際問題、まだ私には、恋とか愛とかはあんまりよく分かりません。(ミレニアムベイビーなのでネ!)

 

舞台でも重要なセリフでしたが、観劇後にこの舞台のことを考える上で必要な問いかけでもあると感じました。

 

この舞台の内容は

 

・意味と価値の関係(オダとチサ)

・愛とは(ゴタンダとピーマン)

 

この2つの事柄で構成されていると思いました。

 

 

 

 

 

意味と価値

 

意味と価値って似て非なるものですよね。よく「勉強する意味ってある?」とか「勉強する価値ってある?」とか学生時代によく話してた気がします。(その時は本当に勉強とは…を、考えていた訳ではなく勉強をしたくない理由として引き合いに出していただけですが)

こう質問している時は意味と価値って類義語のように感じられますが、結果ニアリーイコールであり、ノットイコールなんですよね。

 

オダは、意味の話をしていました。

序盤、サエグサに多分ですが離婚調停中であることをバラされた際、奥さんに逃げられた自分には意味が無いという話をしていて。

脅迫状*2を出してからは店を辞めないと…という気持ちでありながらも、実際見受けられたのはバイトのゲンマルのマグロック*3に魚肉ソーセージを巻き付けてるだけなんですよね。多分ちょっとした当てつけみたいなもんじゃないかなって思いました。スーパーの人達が「そんなことオダさんが出来るはずない」と口々に言うのです。この総意は本心であり嘘では無いと考えられます。

しかし魚肉ソーセージを盗ったところで、どこに、何に、被害が及ぶなどは全く彼には関係ないのです。ただ"事件を起こした"という意味に縛られてしまっている。ただ彼は意味が欲しかったから。そこに価値なんてのは全くない。(そもそも考えてないと思う)やり方はどうであれ、意味を自分自身に見出したからこそ、そのままフェードアウトするつもりであったのでしょう。

 

一方のチサは、価値に囚われていました。

レジ係という立場で売り出されてる商品の価値を確認しています。自分自身をバーコードリーダーで ピッ、とスキャンし"私の価値"を都度確認しています。「私の価値はどれくらい?」と言っては誰かに自分自身の価値をつけて欲しい、そんな場面もありました。「それって価値は高いのかしら?」というセリフがあるように、他者評価がチサにとっては大事であった。

所詮現代社会は他己評価で成り立っていると思っているので、そこに関しては全くの疑問はありません。マーケットでは、生鮮食品売り場のエイタがレジ係のヨネさんに毎日(毎回?)他己評価を貰っていますしね。

 

チサはの価値はお金でしか見れていなかった。お金があれば何もいらなかったのです。価値としての支払いのレジのお金を盗むことで意味にしてしまった、その価値と意味を癒着させてしまった。強い信念があるからこそ、自滅してしまったのかもしれません。

本来レジ係は他者にだけピッ、とできる人間では無いといけない。自分自身をレジで通してはいけないのです。自分がレジになる必要があり、ヨネさんはそれができていたんですよね。

 

 

 

 

 

 

愛と、そしてヒーロー

 

そんな2人がどうなったのかを話す前に、もうひとつの大きな事柄である、愛についてを考えてみます。

 

愛とは、虚心で行うコミュニケーションなのです。見返りのないものであり、そして受け手になった際に感じられるもの。

これが観劇した私の考えや経験から導き出した結論です。

 

話は頭に戻りますが、「愛の売り場はどこですか?」というピーマンが投げかけた問い。

それに対するゴタンダが出した答えはカスタマーセンターでした。マーケットの売り場でコミュニケーションは取れます、しかしながらそこには金銭が発生してしまいます。最終的にゴタンダが配属されたカスタマーセンターでは客からの思いをしっかりと受け止め、コミュニケーションが取れる場所です。

 

ゴタンダが目指していたヒーローとはつまり、誰かが呼ぶ声に耳を傾け「僕はここにいるよ」と返すこと。ヒーローに助けてほしいときは口笛を吹くと必ず駆けつけてくれる。ならヒーローが口笛を受け取ってくれるのか、口笛が遠くまで聞こえるのはなぜなのか?おじいちゃんにも、おばあちゃんにも、リンゴに聞いても、答えは返ってきません。自分自身で考えなければならないからです。


「それはあなたが、呼ばれることを願っているから。あなたは一人じゃさみしいから、あなたは人を求めているから。人は、ひとりではないから」


チサに愛を示す、ゴタンダとピーマンの双方向のやり取りによって、ヒーローはヒーローになる。愛は成り立つ。

価値のやり取りではなく、愛はただ相手の声を受け取るもの、誰かを特別と思うことで特別と思われる双方向のやりとりなのだと二人は気付いたのです。

 

チサはそれができなかった、ヨネさんを筆頭として、きちんとしたコミュニケーションを誰とも取れていなかったから。
エイタは「恋をすることは楽しいしかなしい」と言っていましたが、チサは「私は楽しくもかなしくもない」と言っていた。恋をしていない、心が動かないのでゴタンダとピーマンの「君が好きだ」というストレートな愛を受け取ることができなかったんだなと思います。

 

逆にオダはそれができていた。ゲンマルの過去の事情を知ってる程度には話を聞いている。その上ぬいぐるみ遊びにもバンドごっこにも付き合ってあげていて、消極的ながらも人としての情があった。だからゲンマルは自分が犯人になってもいいからオダを辞めさせたくないと願ったからこそ叶えることが出来たのかもしれない。

 

 

 

エイタの「完璧な人間なんていない」という言葉通り、全員を救うことのできるスーパーヒーローはいない。誰かが口笛を吹く度、あやふやで未完成な存在がその場で発生するだけなのです。それをヒーローと呼べるのでしょうか。

 

本当のスーパーヒーローになるなら、フィクションの中で人間でない存在でないといけないのです。ピーマンの描いたストーリーの中だけなら、ゴタンダのヒーローイズムを称え、スーパーヒーローになれるのですが。

現実でスーパーヒーローになりたかったゴタンダは、だからこそ残酷とも捉えられるセリフを最後に言い放ちます。「ヒーローは案外、虚しいものです」と。

 

 

 

 

 

自分自身の人生は真っ白なキャンバスである。自己評価と他己評価で愛で色をつけていくのだ、それが人生という作品の価値や意味になるのだから。

 

 

ミュージカル「SUPERHEROISM(スーパーヒーローイズム)」オフィシャルホームページ | キャスト紹介やチケット情報など

2021.6.23/マチネ in 日本青年館ホール

 

 

 

愛を込めて、2021.6.25

 

 

*1:ずっと前髪を上げてたのでこのあだ名がついた

*2:魚肉ソーセージを盗むという内容

*3:マグロのぬいぐるみ